――17時
ジェニファーは厨房で1人の女性と一緒に料理を作っていた。
「そうそう、その調子よジェニファー。大分、料理の腕が上がったじゃないの」
「ありがとう、ケイトおばさん」
料理を教えているのは、夫と2人暮らしをしている近所の女性だった。
彼女はたった1人で家事をさせられているジェニファーを気の毒に思い、料理や洗濯の手伝いをしてあげていたのだ「この分なら、今年中には1人で料理を作れるようになるかもね」
「あ……そうですよね。いつまでもケイトおばさんに頼ってばかりじゃ駄目ですよね」
その言葉にジェニファーの顔が曇る。
「あ! 違うわよ。勘違いさせるような言い方してごめんね。ただ、私は料理の腕が上がったことを褒めただけなのよ。大丈夫、この先もジェニファーのお手伝いに来るから心配しないで」
ケイトは慌てて否定した。
「でも、ケイトおばさんにあまり迷惑かけるわけには……」
叔母はケイトがジェニファーの家事を手伝ってあげていることを知っている。知っている上で、1度も礼を述べたことはない。
何故ならそんなことをすれば、ケイトに賃金を支払わなければならないと考えていたからだ。「いいのよ、息子たちも手を離れて暇を持て余していたのだから。これから先もいくらでも私を頼って頂戴?」
「ありがとう、ケイトおばさん」
「さて、それじゃ料理の仕上げをしちゃいましょう?」
「はい!」
ジェニファーは笑顔で返事をした――
**** ――19時 家族全員揃って、ジェニファーが作った料理を口にしていた。「また今夜も安っぽい料理ね。たまには肉料理でも作ってみたらどうなの?」
アンが、じろりとジェニファーを睨みつけた。
「でも叔母様……お肉を買うお金が無くて……」
「だったら、せめてハムくらいは買えるでしょう?」
「……ハムを買ったら、パンを焼けません……」
「な、何ですって……?」
ジェニファーの言葉に、アンは夫のザックを怒鳴りつけた。
「あなた! もっとお金を稼いできなさいよ! これじゃ、栄養失調になってしまうわ!」
「黙れ! 俺は一生懸命働いている! 第一、お前が無駄遣いばかりするからこの屋敷の財産を食いつぶして貧しくなってしまったのだろう!?」
「何ですって!? 誰のお陰でこの屋敷に住めるようになったと思っているのよ!」
夫婦はこの屋敷の正当な持ち主のジェニファーの前で口論を始めてしまった。
すると、ゆりかごに入れられていたニックが激しく泣き出した。「オギャアッ! オギャアッ!」
「あ、ニックが!」
ジェニファーは急いでゆりかごからニックを抱き上げた。
「あ、あの。叔父様、叔母様。喧嘩はやめて下さい、ニックが泣いています」
「うるさいわね! こっちはそれどころじゃないのよ!」
「そうだ! ニックの子守はお前の仕事だろう!?」
ジェニファーの訴えに、叔母と叔父は言い返してきた。
「あ〜あ。また始まっちゃったよ」
「うるさいよね〜」夫婦喧嘩に慣れっこになってしまったダンとサーシャは知らんぷりをして、食事を続けている。
「大体俺1人の給料で、お前たちを全員養えるはず無いだろう? 誰か俺以外に働き手が……」
そこで叔父の目がニックをあやしていたジェニファーに止まる。
「叔父様?」
「そうだ、ジェニファー。お前が何処かへ奉公に行けば良いのだ。そうすれば食い扶持も減るし、金だって稼いでくれるだろう。子守の仕事くらいなら出来るだろう」
「そ、そんな……」
叔父のあまりの提案に、ジェニファーは眼の前が真っ暗になってしまった。
まだ、たった10歳の子供に満足な教育もつけずに奉公させようとしているのだから。 すると叔母の顔色が変わった。「何ですって!? ジェニファーを働かせるつもりなの? そんなことさせられるはずないでしょう!?」
「叔母様……」
(まさか、私の事を考えてくれていたの?)
けれど次の瞬間、ジェニファーの思いは踏みにじられることになる。
「ジェニファーが奉公に行けば、誰が家事をしてくれるというのよ!」
「うるさい! ならお前がやればいいだろう!?」
「嫌よ!! どうして私がやらなければならないのよ!」
夫婦喧嘩は増々激しくなり、ダンとサーシャは黙々と食事を続けている。
「お願いですから、喧嘩はやめてください……」
そして泣いているニックをあやしながらおろおろするジェニファー。
これがブルック家の繰り返される日常だった。
そんなある日のこと。
ジェニファーの運命を大きく変える出来事が訪れることになる――「はい、これでもう大丈夫よ」ケイトがジェニファーの傷の手当を終えた。「ケイトおばさん、ありがとうございます。でも……折角手当してもらえたけれど、これでは家の仕事が出来ないわ」じっとジェニファーは自分の手のひらを見つめた。両手はしっかりと包帯が巻かれていてる。「何言ってるの? そんな手で家事が出来ると思っているの? 食器洗いなら他の誰かにやってもらいなさい。……まぁ、あの夫人ならやりそうにないけれど、少なくともあの子達なら手伝ってくれそうじゃない」「だけど、料理や洗濯が……」「料理は私が作って運んであげる。洗濯だって、やらせればいいのよ。誰もやる人がいなければ、流石に夫人だって家事をしなければならないって自覚が湧くわよ」「そうでしょうか……?」けれど、ジェニファーには叔母が素直に家事をするとは到底思えなかった。「いい? ジェニファー。あなたはまだ10歳、本当なら学校へ通って勉強している年なのよ? なのにあの夫婦は学校へ通わせることもせず、使用人のように仕事ばかりさせているじゃない。こんなこと間違えているのよ?」ケイトはジェニファーの肩に手を置き、瞳を覗き込んだ。「でも、叔母様達が来てくれていなければ私は一人ぼっちで……」「それは違うわ。あの大人たちはジェニファーを利用して乗り込んできたのよ。保護者面して、そのくせ一切の養育義務を果たしていないのよ。元々あの屋敷はジェニファーの物なの。……と言っても、まだあなたは子供だからどうすることも出来ないわよね……他に頼れるような親戚はいないのかしら?」ケイトの言葉に、ジェニファーは叔母に取られた手紙のことを思い出した。「そう言えば、今日私宛に手紙が届いたんです。送り主はセオドア・フォルクマンという方で、叔母さんの話だと伯爵様だったみたいなのですが……手紙を取られてしまいました」「何ですって!? 自分宛の手紙を夫人に取られてしまったのですって!?」その言葉に、ケイトは目を見開いた。「はい」「まるで泥棒と一緒ね。それで、ジェニファーは手紙を読んだのかしら?」「いえ、読む前に取られてしまいました」「まぁ! 何処まで酷い人なのかしら……人の手紙を盗むなんて、許されないことよ! それでは内容が分からないというわけね? 当然住所も分からない……わよね?」ケイトの言葉にジェニファーは頷く。「はい、
「わぁ〜美味しそうな匂い!」「ケイトおばさんだ!」ダンとサーシャは意地悪な母親よりも、優しいケイトが好きだった。そのことが、余計にアンを苛立たせていたのだ。「こんにちは、ダン、サーシャ。皆にシチューを作ってきたわよ」ケイトは途端に笑顔になる。「ありがとう、 ケイトおばさん」「私、シチュー大好き!」「こ、こら! ダン! サーシャ!! あなたたち、何言ってるの!? こんな物食べちゃだめよ! 今から食事はジェニファーに用意させるのだから!」「イヤ! だってお腹ペコペコ! もう待てないもの!」アンが怒りで顔を真っ赤にさせると、サーシャは激しく首を振る。「あ! お姉ちゃん! その手、どうしたんだよ!」そこへダンがジェニファーの手の平に出来た傷に気づいた。「可哀想に、ジェニファーはあなたたちのお母さんから1人で薪割りをするように命じられて、それで豆が潰れて怪我をしてしまったんだよ」ケイトが嫌味たっぷりに教えた。「え? そうだったの?」「薪割りは大人の仕事だって言ったじゃないか!」サーシャは首を傾げ、ダンが母親のアンを睨みつける。「そ、そうよ! ジェニファーは、あんたたちより大人だから薪割りをさせたのよ!」「ジェニファーはまだ10歳の子供ですよ!」ケイトが言い返した。「そうだよ! だったら俺だって薪割り位手伝うさ!」ダンの言葉にアンは青ざめる。「何言ってるの!? 駄目よ! 薪割りで怪我でもしたらどうするの?」「だったら、お姉ちゃんは怪我してもいいっていうの?」今度はサーシャが母親に問いかけた。「うっ……!」(な、何なの? この女といい、ダンにサーシャまで……ジェニファーに丸め込まれたっていうの!?)アンは悔し紛れにジェニファーを睨みつけた。「あ……」(どうしよう、叔母様を怒らせてしまったわ……また叩かれてしまうかも……)ジェニファーの顔に怯えが走り、そのことに気づいたケイトがアンの前に立ちふさがった。「さぁ、どうします? 子供たちは皆シチューとパンを欲しがっています。夫人は欲しくないのでしょう? ご安心下さい、無理に夫人に食べてもらおうとは思っていませんから。さ、それじゃジェニファー、私の家に来なさい」ケイトがジェニファーに声をかけた。「え? ケイトおばさん?」「ちょっと! ジェニファーをどうするつもりなの!?
夕暮れ時、ようやく薪割りを終えたジェニファーは屋敷の中に入ることを許された。「全く、薪割りに何時まで時間を掛ければ気が済むのよ! さっさと夕食の準備をしなさい!」アンはイライラしながら厨房に立つジェニファーを怒鳴りつけた。「は、はい……でも、叔母様。私の手……豆が潰れて血が出ていますけど。こんな手で料理してもいいのですか?」ジェニファー両手の平を叔母に見せた。少女の小さな手の平は幾つもの豆が出来て潰れて血がにじみ出ている。「うっ! な、何なのよ! その手は! 斧の握り方が悪いからそんなことになったんじゃないの!? それとも家事をしたくなくてわざと怪我をしたのかしら?」「そんなことするはずありません!」あまりのアンの言い方に、ジェニファーの目に涙が浮かぶ。そのとき。――コンコン屋敷にノックの音が響いた。「全く、誰かしら? こんな忙しいときに……ジェニファー! 早く応対しなさい!」アンは来客の応対までジェニファーにさせていた。貴族生活に憧れていた彼女は使用人がするような仕事は一切する気は無かったのだ。「はい……」小さく呟くと、ジェニファーは扉へ向かった。「どちらさまでしょうか?」『私よ、ケイトよ』「え? ケイトおばさん?」扉越しに聞こえた声に驚き、ジェニファーは扉を開けた。すると、鍋とバスケットを手にしたケイトが現れた。「ケイトおばさん……」「ジェニファー。可哀想に……今日、薪割りをさせられていたでしょう? 食事の準備が出来ないのではないかと思って鍋にシチューを作ってきたの。パンもあるから皆で食べるといいわ」「ありがとうございます、ケイトおばさん」ジェニファーが鍋を受け取ろうとしたとき、ケイトは手の平の豆に気づいた。「どうしたの!? ジェニファー! ひどい怪我をしているじゃない!?」「あ……これは……」両手を後ろに隠しても、もう遅かった。「薪割りのせいで、豆が出来たのね……? その手じゃ何も持てないでしょう。いいわ、私が運んであげる」ケイトは屋敷の中に入ってきた。「え? ケイトおばさん?」ジェニファーは慌てた。何故なら叔母はケイトが屋敷に上がり込んでくるのを良く思っていなかったからだ。「ジェニファー! 遅いじゃない! 一体何を……あら?」厨房に戻ってきたジェニファーを怒鳴りつけた叔母は、ケイトの姿を見
「ブルックさん。お手紙が届いていますよ」ジェニファーが庭掃除をしていると、郵便配達員が手紙を持って現れた。「どうもありがとうございます」受け取ると、配達員は「それでは」と言って笑顔で帰っていった。「誰からかしら……?」受け取った手紙は3通。いつも宛先は叔父の名前ばかりで手紙が届く度に叔父はイライラし、「くそっ! また督促状か」と呟いていた。「督促状」と言うものが、何か分からないジェニファー。字の読み書きは出来るものの、叔父家族は少女に満足な教育の場を与えてくれなかったので難しい単語は理解できなかったのだ。「また叔父様の機嫌が悪くなりそうね……」ため息をついて手紙を改めると、1通はジェニファー宛になっている。「え? 私宛の手紙……?」今まで自分に手紙が一度も届いたことが無かったジェニファーは首を傾げた。「一体誰からなのかしら?」手紙を返してみると、差出人はセオドア・フォルクマンとなっていた。「セオドア……フォルクマン……?」ジェニファーは記憶を手繰ってみた。何処かで聞き覚えのある名前のような気がする。「でも、手紙を読めば分かるわよね」手紙を開封しようとした矢先。「ジェニファー! こんなところで何をしているの? さっきから呼んでいたのが分からないの?」背後で叔母のヒステリックな声が聞こえた。「あ……ご、ごめんなさい。外で庭掃除をしていたもので……」本能的に叔母の目から手紙を隠そうとエプロンのポケットに入れたものの、見つかってしまった。「ちょっと、今ポケットに何を隠したの? もしかしてお金でも盗んだのじゃないでしょうね!?」「そんな! お金なんて盗んだことありません!」「だったら、今隠したものを見せてみなさいよ」叔母は右手を広げて、ジェニファーの前に突き出した。「はい……」こうなると、もうジェニファーには逆らえない。震えながら、ポケットにしまった手紙を差し出す。「何? 手紙? 何で隠すのよ」サッと叔母は手紙を奪ってしまった。「叔母様! その手紙を返して下さい! それは私宛なんです!」「はぁ? あんた宛に手紙? そんな物来るはず……あら? 本当ね」ジェニファー宛に届いた手紙ということに気付くと、叔母は勝手に開封してしまった。「やめてください! 私の手紙なんです! 返して下さい!」必死に訴えるジェニファー
――17時ジェニファーは厨房で1人の女性と一緒に料理を作っていた。「そうそう、その調子よジェニファー。大分、料理の腕が上がったじゃないの」「ありがとう、ケイトおばさん」料理を教えているのは、夫と2人暮らしをしている近所の女性だった。彼女はたった1人で家事をさせられているジェニファーを気の毒に思い、料理や洗濯の手伝いをしてあげていたのだ「この分なら、今年中には1人で料理を作れるようになるかもね」「あ……そうですよね。いつまでもケイトおばさんに頼ってばかりじゃ駄目ですよね」その言葉にジェニファーの顔が曇る。「あ! 違うわよ。勘違いさせるような言い方してごめんね。ただ、私は料理の腕が上がったことを褒めただけなのよ。大丈夫、この先もジェニファーのお手伝いに来るから心配しないで」ケイトは慌てて否定した。「でも、ケイトおばさんにあまり迷惑かけるわけには……」叔母はケイトがジェニファーの家事を手伝ってあげていることを知っている。知っている上で、1度も礼を述べたことはない。何故ならそんなことをすれば、ケイトに賃金を支払わなければならないと考えていたからだ。「いいのよ、息子たちも手を離れて暇を持て余していたのだから。これから先もいくらでも私を頼って頂戴?」「ありがとう、ケイトおばさん」「さて、それじゃ料理の仕上げをしちゃいましょう?」「はい!」ジェニファーは笑顔で返事をした――****――19時 家族全員揃って、ジェニファーが作った料理を口にしていた。「また今夜も安っぽい料理ね。たまには肉料理でも作ってみたらどうなの?」アンが、じろりとジェニファーを睨みつけた。「でも叔母様……お肉を買うお金が無くて……」「だったら、せめてハムくらいは買えるでしょう?」「……ハムを買ったら、パンを焼けません……」「な、何ですって……?」ジェニファーの言葉に、アンは夫のザックを怒鳴りつけた。「あなた! もっとお金を稼いできなさいよ! これじゃ、栄養失調になってしまうわ!」「黙れ! 俺は一生懸命働いている! 第一、お前が無駄遣いばかりするからこの屋敷の財産を食いつぶして貧しくなってしまったのだろう!?」「何ですって!? 誰のお陰でこの屋敷に住めるようになったと思っているのよ!」夫婦はこの屋敷の正当な持ち主のジェニファーの前で口論を始めてしま
「ジェニファー! ジェニファー! 一体どこにいるの!?」ダークブロンドの髪を結い上げた女が、火の着いたように泣き叫ぶ赤子をあやしている。「オギャアッ!! オギャアッ!!」「あぁ! 全く、お願いだから泣き止んで頂戴! ジェニファー! 何してるのよ!早く来なさい!」「はい! 叔母様!」そこへエプロン姿の少女がほうきを手に、部屋の中へ駆け足でやってきた。「全く、呼ばれたらすぐに来なさい! 本当に愚図なんだから! さぁ、早くニックの子守をして頂戴!」女性は1歳にも満たない赤子をジェニファーに押し付けてきた。すると、すぐに赤子は泣き止む。「叔母様! 私、今屋敷の掃除をしていたのですけよ? 子守なんて無理です!」赤子のニックを抱きかかえながら、ジェニファーは訴えた。「何言ってるの? おんぶ紐があるでしょう? 両手が空いていれば掃除くらい出来るじゃないの! 私は授乳で疲れているのよ。あなたは子供たちの中で一番お姉さんなのだから、子守位できるでしょう? 大体、私達がいるから貴女はここで暮らしていけるのよ? それを忘れたの!?」ジェニファーの叔母、アンはベッドサイドに置かれたおんぶ紐を指さした。「……いえ。忘れていません。分かりました、叔母様」ジェニファーはため息をつくと、ニックをおんぶ紐で背負った。「それじゃ、掃除の続きをしてきなさい。私はこれから少し仮眠を取るわ。15時になったら子供たちにオヤツをあげるのよ」「はい、叔母様」アンはカウチソファに横になると、すぐに寝息を立て始めた。「……おやすみなさい、叔母様」傍らにあったブランケットをそっと掛けてあげると、ジェニファーはほうきを持って掃除へ向かった――**** 赤子を押し付けられ、まるで使用人のように働かされているジェニファー。現在10歳で、正式なブルック家の男爵令嬢である。ジェニファーは不運な娘だった。彼女の母親はジェニファーを出産してすぐに亡くなってしまった為、父親によって育てられた。しかし、その父親も彼女が8歳のときに病気で亡くなってしまった。そこへジェニファーの後見人を名乗る、母親の妹が家族を連れてブルック家に上がり込んできたのだ。そこから、ジェニファーの苦労が始まった。叔母と叔父はとんでもない浪費家だった。ブルック家は叔母家族によって散在され、あっという間に財産